じいちゃんが死んだ。
足を怪我して入院し、そのまま亡くなった。
死因はコロナだったけど、どうやらそのへんはぼんやりしているようだった。
朝まで元気だったんですよ。
そんなことを医者が言った。
じいちゃんはよく働いた。
自転車で転んで救急車で運ばれたその日が最後の出勤だった。
ばあちゃんに頼まれた買い物を終えて帰る途中に何につまづいたわけでもなく、なんでもないところで自転車ごと転んでしまったらしい。75歳だった。
話し上手で、よく話を聞いてくれて、冗談を言ってやわらかい空気を作る人だった。
わたしが何時に家に行くねと言ったら必ず外に出て待っているし、帰るときは見えなくなるまでそこに立っていた。
わたしが小さいころ、じいちゃんは下町のお弁当屋さんだった。
作業場によく連れて行ってもらって、出来立ての卵焼きを食べさせてもらった。
じいちゃんがうんと早く起きて作る黄色いパッケージのインスタントコーヒーは、角砂糖をたくさん入れるから頭が痛くなるほど甘い。
じいちゃんは、ビールが好きだ。
わたしにグラスを用意してくれて、ぐいっと飲めと嬉しそうに言う。
わたしが口をつけて苦いというと「まだ早いか」と言って楽しそうに笑う。
ほろ酔いなじいちゃんは、孫を集める。
わたしたちは待ってましたと言わんばかりにじいちゃんの手を引きいつものスーパーに行く。
買い物かごをひとりひとつ。気の済むまでいっぱいにお菓子を詰める。
夢のような時間だ。
いつだったか。お菓子でいっぱいのビニール袋を両手にさげた、じいちゃんの曲がった後ろ姿がとても小さくてなんだか少しさみしい気持ちになったのは。
帰るとばあちゃんはいつも怒ったけど、じいちゃんは「いいじゃんねー」と笑って次の日もその次の日も連れて行ってくれた。
じいちゃんは人のためによくお金を使う人だった。
お弁当屋さんの経営が苦しくなってもそれは変わらなかった。
じいちゃんは、運転が好きだった。
弁当屋が潰れてから、教習所の送迎をするバスの運転手になった。
そのあとは、幼稚園の送迎をするバスの運転手になった。
最後は清掃員だった。
会社の車だったけど、自分で運転して現場まで行って働いた。
じいちゃんの家は一軒家からとても小さな家になった。
お風呂もない家だったけど、じいちゃんはとても良くきれいにしていた。
わたしが来る前はとくにきれいに掃除するってばあちゃんは言っていた。
捨てられない人で、割りばしや袋、つまようじ、ストローなんでも大事にとっていた。
部屋のいたるところにじいちゃんの生活の工夫があった。
わたしがはじめて上京したとき、じいちゃん家の近くに家を借りた。
ばあちゃんが作ってくれたおかずとラップに包んだお米を、どんなに暑い日も、寒い日も毎週日曜日に自転車に乗って届けに来てくれた。
じいちゃんが盲腸で入院したとき、ベットの上で言っていた。給料日に1枚だけ宝くじを買うのが楽しみだ。番号は孫6人の誕生日の数字にしている。
妹の結婚式で、じいちゃんは珍しくものすごく酔っぱらった。
はやく結婚しなさいみたいなことを言われて少しむっとした。
じいちゃんは孫の子供を全員見てから死にたいのと口癖のように言っていた。
それは叶わず、じいちゃんは死んだ。
お正月に最後に電話で話したのが最後だった。
きっと言いたいことがいっぱいあったと思うのに、「元気ならいい。」それだけ言った。
わたしもたくさん話したいことあったのに、へらへら笑って、そのまま電話を切った。
結婚もせず、いつまでも好きなことばかりして、そこそこしかお金もないわたしを、じいちゃんはどう思っていただろうか。
がっかりしていただろうか。
心配していただろうか。
それとも怒っていただろうか。
血が繋がっていないことを知ったのは高校生のときだった。
母親がある日ぽつりと言った。
この巻き肩と猫背はじいちゃん譲りだねと小学校のときお母さんが言ったのをぼんやり覚えていた。
わたしはじゅうぶんに愛された記憶しかない。
目の前の母親を抱きしめたくなったけど、わたしはそんなときいつもどうしようもなくそこにいるだけだ。
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